透析医療における関係性は?

透析医療に限らず日本の医療は、概ね「親‐幼児」「親‐年長児」の医療者と患者の関係が根強く存在していると思います。

前回までの紹介の通り、患者の容態・状況によっては、そう有らざるを得ないことまで否定するものではありません。その関係性によって、医療者が全力で患者に向き合い、その状況下で、その時の最善の治療を提供することで、患者の救命に繋がり、予後の改善が期待できるわけですから。

一方、継続的な治療を必要とする慢性疾患においても、医療者・患者双方において、この関係性が浸透し、それが潜在的な意識として両者に刻み込まれているのではないでしょうか?
(急性期段階でも、患者本人にその意識が無かったとしても、患者家族の意識の中にその関係性が刻み込まれていることで、固定的に陥っていると考えられます。)

私の透析治療を通しての療養経験から、日本の医療はまだまだ・・・、
「医療者が上、患者が下」の構図が破られていません。その両者のコミュニケーション矢印は、「上から下へ」が極めて太い矢印で、「下から上へ」の矢印は極めて細い点線の様です。
そもそも、本来は「上から下へ」ではダメなんですよね。

透析導入から維持透析へと経過する透析患者にとって、その治療は半永久的に続きます。
(根治療法としての腎臓移植を希望し、それが実現する、または本人の意に反して治療継続が困難になること以外)

初めての透析の時、失意と混乱の中で自身の血液を茫然と見つめている時、その横で担当の看護師から言われました。
「これからずーと、この透析を続けていかなければなりません。この治療無しでは生きていけません。そして、この治療にとって大事なのは、患者さん自身の自己管理です。」

何気に聞いていた様で、、、
でもしっかりと、この言葉は覚えています。そう、
『透析は「透析治療そのもの+患者の自己管理」の両輪で、安定した治療生活が可能になる。』

「お任せ」で来た私・・・
紹介された病院で腎炎治療のための入院生活をし、腎機能の低下で透析が必要と「宣告」されて、透析治療を行っていたその病院で、言われるままに外シャントの手術をして、透析導入へ。
その過程で唯一自分の意見(?)を言ったのは、「シャント手術後、透析します。」と言われた時に、「今日は・・・、明日にしてください。」だけだった。

長い、長い透析生活を、「両輪」で安全運転して、安定した治療生活を続けるためには、「お任せ」は卒業しなければなりません。最初は「若葉マーク」での運転でも、それを外して運転できる様に患者自身が学ぶこと、伝えること、そして、医療者との「キャッチボール」が欠かせないこと。

そのためには、医療者と患者の関係性は、「成人‐成人」の関係が築かれなければなりません。
そのうえで、透析治療は「チーム医療」の最たる現場です。透析医療は、医療者と患者の「協働作業」として行われる。

◆追記
透析医療、透析患者について、いつも、いつも議論し、そのあり方・生き方を示してくれた人、私が、これまでで大きな薫陶を受けた一人の尊敬する方が、先日、急逝されました。
80歳を前にして、その半生は透析と共に生きられました。
心から感謝し、ご冥福をお祈りするとともに、あなたと語り合ったことに一歩でも近づけるよう努力します。 合掌

医師と患者と病院と②

前回、医師(医療者)と患者の関係を表題の著書から紹介しました。 患者の状態に応じて、「親‐幼児」「親‐年長児」「成人‐成人」は、イメージしやすい例えでした。 この関係性について、透析患者の場合を私自身の治療経過と経験から […]